梅干と夏と曾祖母の話~梅仕事2007

      2016/05/22

2007

 
終戦記念日です。
62年前の今日もセミが鳴き、肌を射るような暑さでした。
 
実家の母はその頃、小学校に上がるか上がらないかの歳。
九州の田舎に住んでいたのですが、それでもB29がしばしば襲来し、よく防空壕に避難したそうです。
 
戦中戦後と、母の家には疎開やら引き上げなどで、親戚や知人がしばらくの間、同居していました。
多いときには(家族も入れて)20人近い人が、いっしょに暮らしていたといいます。
小さかった彼女は、山や川も自分の部屋のようなものだったから、居住空間が狭くなることは、それほど困ることもありませんでした。
辛かったのは、ごはんがお腹いっぱい食べられなかったこと。
田舎といえども、大人数を十分に養えるだけの食料は、なかなか用意できなかったのです。
 
よく食べたのはお雑炊。
重湯のようなお粥さんに、さつまいもがごろっと入っているのが定番でした。
お雑炊にはたいてい、おばあさんが漬けた梅干が添えられていました。
昔の梅干ですから、おそらく塩分20%くらいのしょっぱいものだったでしょう。
育ち盛りの母は、もちろんそれだけでは足りなくて、山や田んぼのあぜ道で見つける木の実などを、おやつに食べていました。
庭の柿の木に登り、まだ青い柿の実を食べて、お腹を壊したこともあったとか。
 
おばあさん(わたしの曾祖母)は、料理上手な人でした。
物がないあの時代でも、小豆から煮てお饅頭を蒸かしたり、お餅の端切れでおかきを作ったり、バターが入らない固焼きクッキーを焼いたり、近所から卵を分けてもらったときは、カステラを焼いたりしていたそうです。(こういう話はたぶん戦後すぐのことだと思います。)
梅干もお味噌も毎年、何十キロと仕込んでいました。
母はよく梅干の土用干しの手伝いをして、つまみ食いを楽しんだそうです。
 
いろいろと厳しかったおばあさんでしたが、彼女のおかげで、母は物のない時代にも、それなりに彩り豊かなごはんを食べることができたのでした。
しかし、そんなささやかな楽しい時間は、そう長くは続きませんでした。
おばあさんは母が小学校低学年のときに、今で言う脳卒中のような状態で倒れ、ぽっくりと亡くなりました。
 
母は今でも、梅干の土用干しをするときに、あのおばあさんと過ごしたいくつかの暑い夏を思い出すそうです。
「今だったら、しょっぱくて食べられない梅干だと思うけれど、あのころはごちそうだったのよね。恐いおばあさんだったけれど、土用干しのお手伝いのときはやさしくってね。楽しかったのよ」
わたしは写真すら見たことのない曾祖母と、梅干のことを思いました。
「おばあさん、孫とひ孫が毎年、梅干を漬けているのを、あちらの世界から見ているかしらね」
「そうね、きっと喜んでいるんじゃないかしらね。それとも、『そげに塩気がのうなってしもたら、梅干っちゅうかいな』って、顔をしかめているかもね」
 
今年も土用干しが無事に済み、母のもわたしのも、おいしい梅干に仕上がりました。
カナカナとひぐらしの声が高くなる頃、母は高齢で臥せっている自分のお母さんに、できあがった梅干を届けに行くようです。
 
 
※今年の土用干しと完成梅干の写真は、次の記事で。
 
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